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横浜地方裁判所 昭和55年(ワ)610号 判決 1983年2月15日

原告

伊藤行衛

右訴訟代理人

関根幸三

加藤由夫

黒木泰夫

岡部光平

被告

横浜市

右代表者市長

細郷道一

右訴訟代理人

猪狩庸祐

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

一1  <証拠>によれば、原告は本件廃印申請及び本件登録申請を自らしたことも第三者に託したこともないことが認められる。してみると、担当職員がこれらの申請を受理し廃印及び印鑑登録の手続をしたことはいずれも原告の意思に基づかないものであつて違法であるといわなければならない。

2  次に担当職員が本件廃印申請及び本件登録申請を受理したことにつき過失があつたか否かの点について検討する。

(一)  右1の当事者間に争いのない事実並びに<証拠>によれば、次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

(1) 原告の妻伊藤初枝と意を通じた第三者某は、昭和四九年五月二二日、横浜市中区役所において、原告本人であると称して、本件廃印申請をした。右申請受理の衝に当たつた担当職員(具体的には藤田勝太郎)は、原告の住民票を見ながら、右某に対して、本籍等を尋ねたうえ、右某から提出された印鑑紛失申立書に「本籍等本人より確認済み」との覚書を記入した(右某が原告本人であるか否かを確認するため、本籍のほかにいかなる事項につき質問したかを直截に知りうる証拠はない。)。更に右担当職員は、右印鑑紛失申立書に紛失の事由として「昭和四九年五月二日に銀行より帰り道に落したらしく何回さがしてもありません」と記載されている点につき銀行名を質問したうえ右某に代つて「(横浜駅西口当用信託)」と記入した。

(2) 伊藤初枝と意を通じた第三者某は、昭和四九年五月二四日、横浜市中区役所において、原告本人であると称して、本件登録申請をした。本件登録申請の申請書の保証人欄には伊藤初枝の住所、氏名、生年月日が記載されていて、その名下に押印(同女の姓を刻した印顆)されていた。

なお、同女は、昭和四三年二月二三日、横浜市中区役所において、印鑑登録をし、その印鑑票が原告と同女の住民票に添付されていた。

(3) ところで、本件廃印申請及び本件登録申請の各申請書には申請者の署名欄(右各申請書ともそれぞれ二箇所宛)があつたが、それらの各欄には原告の氏名が記載してあり、名前の部分が「行衛」となつていた。一方、住民票のうえでは原告の名前は当時「行衞」と記載されていた。昭和五二年九月一九日、原告と伊藤初枝との離婚(後記(4)参照)に伴う戸籍照合の結果、住民票の原告の氏名が「行衛」と書き改められた。

(4) 伊藤初枝は、昭和三七年八月三日原告と婚姻し、本件廃印申請及び本件登録申請当時においても原告と同居していたが、昭和五〇年一〇月二二日ころ、家出した。原告は、婚姻を継続し難い重大な事由があるとして、同女との離婚を求める訴を提起し、昭和五二年五月二七日、請求認容の判決が言渡され、右判決は確定し、同女と裁判上離婚した。その結果、同女は武井姓に復した。

(二)  ところで、本件廃印申請及び本件登録申請がなされた当時、廃印申請ないし印鑑登録のため出頭した者が申請者本人であるか否かを確認する方法として、これらの事務に携わる被告の職員が遵守すべき規定としていかなるものがあつたかの点を考察するに、<証拠>によれば、次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

(1) 印鑑条例は、昭和三九年一二月二五日に制定され、昭和四〇年四月一日から施行されたが、それによると、廃印申請について、第七条第一項において「印鑑の登録を受けている者が、登録を受けている印鑑の登録を廃止しようとするときは、廃印申請書に当該印鑑をそえて区長に申請しなければならない。ただし、紛失または盗難等により印鑑を有しなくなつた場合は、これを証すべき書類をそえなければならない。」、同条第二項において「第三条第一項の規定は、前項の申請に準用する。」旨定められており、更に、第三条第一項では「印鑑の登録を受けようとする者は、印鑑登録申請書に印鑑をそえて、住所地の区長に、みずから出頭して申請しなければならない。ただし、病気その他やむを得ない事由により出頭することができないときは、委任状をそえて代理人に申請させることができる。」旨の規定を置き、本人出頭主義の原則が定められていた。

ところで、前記第七条第一項但書にいう「これを証すべき書類」というのは印鑑登録した者の印鑑紛失申立書と警察署が発行する紛失届受理証明書等が予定されていたが、神奈川県警察本部長から横浜市長宛に、昭和四一年三月七日付で、右趣旨の受理証明書は今後発行しない旨の通知がなされてからは、被告内部の一般的な取扱いとして、印鑑紛失による廃印申請のばあいは、印鑑紛失申立書の提出のみを求め警察署発行の紛失届受理証明書及び廃印申請書の提出を求めないという慣行がおこなわれていた。

なお、印鑑条例第一三条には「区長は、印鑑の登録及び証明の適正な実施を図るため、必要があると認めるときは、職員をして関係人に対し質問をさせ、または印鑑もしくは関係書類の呈示を求めさせることができる。」との規定があり(この点については当事者間に争いがない。)、また、昭和四〇年三月五日制定(同年四月一日施行)の施行規則第八条には「区長は、印鑑の登録申請があつたときは、当該申請書に記載された住所、氏名及び生年月日を住民票または外国人登録原票により確認し受理するものとする。」との規定があつたが、印鑑登録事務に従事する職員は、廃印申請のため本人が出頭したばあいにも、これらの規定を根拠(準用)として調査ないし聴聞を行つていた。

(2) 印鑑登録のばあいの、出頭者が本人であるか否か、その者が真実登録意思を有しているか否かを確認するための制度として、印鑑条例第三条第二項に「前項の印鑑登録申請書には、当該申請は、本人の意思に基づくものであることを保証した保証人が連署し、その者の登録されている印鑑を押さなければならない。」との定めがあるほか、印鑑条例第一三条、施行規則第八条に、前記のとおり、調査ないし聴聞に関する規定が置かれていた。

(3) 昭和四八年以降、助役依命通達によつて、印鑑登録のばあいの本人の確認方法として、保証人の連署押印に代えて、官公署が発行した、発行後三年以内の身分証明書であつて、写真が貼付されたうえ、写真と台紙との間に浮出プレスで契印がなされているものの呈示を求めることもできるという取扱いが行われるようになり、この取扱いは廃印申請のばあいにも拡張されるようになつた。

(三)(1)  前記一2(一)1、一2(二)(1)(調査、聴聞に関する印鑑条例第一三条、施行規則第八条の各規定)の各認定事実に照らして考えると、本件廃印申請の際、担当職員は、印鑑紛失申立書に記載された生年月日と住民票に記載された原告の生年月日とを照合し、かつ、原告本人であると称して出頭した者の年格好を検分しつつ、この者に対して、少なくとも、住民票の記載事項であつて、右申立書には記載されていない本籍(横浜市中区豆口台一〇二番地)、家族構成について質問を発し、住民票の記載に合致する趣旨の返答を得たであろうと推認するのが相当である。

(2)  他方、前記一2(一)(2)、一2(二)(2)の各認定事実を総合すると、本件登録申請の際、担当職員は少なくとも、登録申請書に記載された生年月日と住民票に記載された原告の生年月日とを照合し、かつ、これらと原告本人であると称して出頭した者の年格好とが照応するか否か確認する傍、保証人となつている伊藤初枝が申請者と同一の区(中区)に住民として届出がなされている者であるか否かも確認し、更に、当時住民票と合体して保管されていた印鑑票に押捺されている同女の登録印の印影と右登録申請書の保証人欄に押捺されている印影と対照したのみでなく、その際、同女が申請者欄に記載されている者の妻であつて同一世帯に属する者であることを知つたであろうと推認するのが相当である。

(四)  ところで、国家賠償法第一条第一項に定める国または公共団体の損害賠償責任は、公務員の不法行為責任を国または公共団体に代位させたものと解すべきものであつて、右規定にいう故意過失という要件の存否も当該公務員について判断されなくてはならないというべきである。そして、具体的には、当該公務員の過失の有無は、行為当時の関連法規、通達、それらの運用の実態等に鑑みて、違法な結果の発生を予見しなかつたことにつき職務上の注意義務違背があつたか否かの観点から考察されるべきものと解する。してみると、本件廃印申請及び本件登録申請当時の印鑑条例等の諸規定の内容が前記一2(二)認定のとおりであつて、一方、担当職員が現に執つた措置が前記一2(一)(1)(2)、(三)(1)(2)認定のとおりのものであつてみれば、担当職員が本件廃印申請及び本件登録申請を受理しそれぞれ廃印及び印鑑登録の手続をしたことにつき過失があつたということはいまだ困難である。すなわち、①前記一2(一)(3)認定事実によれば、本件廃印申請及び本件登録申請の各申請書には「行衛」と記載されていて、一方、住民票上は「行衞」と記載されているところであつて、この点の相違は重要であるといえるものの、もともと原告は自己の名前を記載する際「衞」を用いることもしばしばあつたと思われ(このことは、原告の氏名が戸籍上「伊藤行衞」であること(前掲記の乙第四号証の三)、原告は本件訴訟において当事者尋問の際宣誓書に「行衞」と読める字体で署名していること(本件記録上明らかである。)、このほか、原告が大正四年生まれであつていわゆる戦前に学校教育を受けた者であることから推測される。)、名前を自署する際およそ一度たりとも使用したことのない文字ではないということ、廃印申請ないし印鑑登録のため出頭した者が本人であるか否かを確認する方法として申請書の記載と住民票の記載内容とを照合するということは、印鑑証明書の交付の前提として行われる印影の照合(いわゆる直接証明方式)のばあいとは自ら問題の局面が異なり、人物の同一性の識別が目的であつて、本件のばあい、「衞」は「衛」の旧字体であつて文字としては同一であるということ、これらのことからして、本件のばあい、名前に関して右にみられるような相違があるということは、人物の同一性について否定的に解すべき絶対的な標識となるべきものではなく、人物の同一性を判断するにつきその余の資料をも加えつつ総合的に行うことも許されるというべきである(因に、原告が自ら署名したものであると主張するところの、昭和五〇年一〇月二四日付印鑑紛失申立書、同日付印鑑登録申請書の原告の署名欄に記載された名前は、字画が明瞭でなく「衛」であるか「衞」であるか見分け難いものがあるにも拘らず、運転免許証による確認が行われたが為に、何ら問題なく受理されていること(原告本人尋問の結果及び乙第四号証の四のうち昭和五〇年一〇月二四日付印鑑紛失申立書、同日付印鑑登録申請書の記載自体)からも、前記説示するところが裏付けられる。)。②本人であると称する者が廃印申請をしたばあいにも、印鑑条例第一三条、施行規則第八条に準拠して調査ないし聴聞を行うということ(前記一2(二)(1)参照)は手続として合理性があるというべきである。③印鑑条例第三条第一項が本人出頭主義の原則を規定し同条第二項がこれを受けて印鑑登録申請書に保証人の連署とその登録印鑑の押捺を要すると定めていること及び昭和四八年に保証人の連署押印に代えて官公署発行の身分証明書をもつて出頭者が本人であるということの証明をすることもできる旨の助役依命通達が発せられたこと(前記一2(二)(3)参照)からすると、右にいう保証人制度は、当該登録申請が、本人の意思に基づくものであることのみならず、本人出頭の印鑑登録申請のばあいに出頭した者が本人であることをも保証する趣旨のものであるとの解釈が行われていたものと解せられるところ、本件の如く、申請書の記載上、同居の妻が保証人となつていて、かつ、その名下の印影が印鑑票の印影と合致するとの判断に達したばあいには、本人であることの標識機能はより強化されるとみるのが相当である。④前記(一2(二)(3))のとおり、本件廃印申請及び本件登録申請当時身分証明書による確認も行われていたことが認められこれは確認方法として極めて有効な手段であることは疑いないが、事柄の性質上すべてのばあいに適用することはできないものであつて、選択肢の一つであつて、これを履践しなかつたからといつて直ちに職務上の注意義務違反があつたとは言うことができない。⑤本件廃印申請及び本件登録申請当時、申請を受理した者が窓口の職員のうち何人であつて、本人であることを確認するためいかなる方法を講じいかなる事項につき聴聞を行つたかを後日においても客観視しうるような文書上の様式が整備されていなかつたということは、印鑑登録事務が市民の財産権と深い関わりのある手続であることから一件一件の登録事務が系統的に疎漏のないよう、責任体制を明確にしながら運営されるべきであるという要請からみて、制度としていささか不備の憾を免かれかたい(事務量が膨大であるということのみでは免責の理由にならないと思料する。)。また、<証拠>によれば、昭和五二年に印鑑条例が改正されて、一定の場合(印鑑登録については、代理人申請のばあい及び本人申請であるが身分証明書の呈示、保証人の連署押印いずれの方法にもよれないばあい、廃印申請については代理人申請のばあい)に本人に対して登録申請ないし廃印申請がその真正な意思に基づくものであるか否かを照合する制度が新設され、本人確認についてより慎重を期するため手続上の改善が加えられたことが認められる。しかしながら、公務員の過失の有無の判断の基礎となる資料は行為当時に存在したものによるべきであつて、行為後の諸事情を参酌して、過失の有無を論ずることは、過失判断の構造及び条例、規則、上級官庁の命令等に服従すべき公務員の義務という観点から考察すると、当を得ないものといわなければならない(条例等の内容が客観的にみて妥当なものであるかどうか立法上検討される余地のあることは別論である。)。

右①ないし⑤のことに照らして考えると、結局、本件において、担当職員に過失があつたということはできないといわなければならない。

二以上によれば、原告の本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく、理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。 (髙山浩平)

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